【延寿通信】 2018年12月21日(金)

延寿通信 第186号  2019年1月

 古代ローマ帝国の大浴場


 わが国の人たちはまだ、穴蔵に近い所で、魚鳥や草根木皮を採取して暮らしていた頃、古代ローマ帝国は燦然たる大国家として、石造の巨大な建築物が並び、立派な道路網もあって、国民は華やかな暮らしを楽しんでいました。
 ローマには遺跡として、石造の建物、道路、水道などのほか、神殿、競技場なども残っており、もちろん豪華な浴場の跡もあって、これらが当時の暮らしを偲ばせます。
 ローマ帝国というのが生まれるのは、紀元前8世紀にローマに人が住み始め、紀元前4世紀ごろには、立派な城壁も出来て豊かな暮らしが展開され、国らしくなってきました。今から2000年前の話です。ローマ帝国は約1000年にわたり栄えて、これが滅亡するのは、西ローマ帝国は476年に、東ローマ帝国は1453年です。
 クレオパトラとシーザー(カエサルともいう)は、ちょうど紀元前の世紀の終わる頃に、このローマ帝国で活躍し、数々の話題を残しています。
 ローマ帝国は古い、長いというだけではなく、華々しい文化を残したことで新しい世界の歴史を造りました。わが国では縄文時代が終わって、弥生時代から古墳時代にかけての頃であり、山野の自然に囲まれ、文化生活には程遠い暮らしをしていました。この時代が、ちょうど西ローマ帝国の時代に当ります。
 ローマ帝国では、石造の巨大な町が出来て、都市計画も整然と進み、今日、たくさんの遺跡が残っております。その中で、今回取り上げたいのが公衆浴場です。ローマ帝国は、国民の衛生・入浴には特に気を配り、巨大な公衆浴場を建設して運営しました。
 わが国の銭湯の歴史を見てみると、ローマ帝国の時代から1500年もあとですが、江戸時代のはじめには、京、江戸に銭湯が出来て、大繁盛であったといいます。それ以前は、まだ、殺伐とした世の中で、鎌倉・平安時代では、庶民は住む場所の確保に追われて、風呂どころではありませんでした。

1.ローマ帝国とはどういう国であったか
 ローマに帝政の成立したころ、全帝国の人口は5~6000万人で、ローマ人は500万人前後、このうちイタリア以外に住むローマ人は120万人いたといいますので、ローマという国の地中海沿岸はじめ、海外に伸びる勢力は大なるものがありました。
 ローマに何かあって、軍事力を必要とするときには、地中海沿岸の諸国から各地の指導者が兵士を連れて支援に来る体制も出来上がっていました。このような体制は紀元前2世紀にかけて出来上がっており、政治的にも軍事的にもローマは世界の中心でした。
 ローマ帝国には、たくさんの奴隷がいましたが、この奴隷も一定期間働くと、市民階級に繰り入れるようになっており、これは、当時の国々には見られないローマ帝国の特徴でした。奴隷というのは、戦いで勝ち取った外国人、あるいは人身売買で取引され、海外から来た人たちで、上層階級の家で強制労働させらていました。
 このように、当時は階級というか、国民の層は別れてはいましたが、帝国というだけに、皇帝が君臨して国を治めていました。皇帝あるいは王という最高の権力者がいて、その命令に従って国民が支配される政治体制が帝国です。政治体制では、皇帝の存在は当然とはいえ、国民の参画も時にはあり、共和制の時期もありましたが、何分にも長い歴史の過程で変転しています。
一般に、ローマ帝国の国情あるいは暮らしの説明では、神殿のみならず、豪華な石造の建築物が町に並んで、豊かな様相が浮かび上がってきます。それは限られた富裕な階層の話です。しかし、ローマ帝国では貧困層はいても、アジアの国々よりは恵まれていたのではないかと察します。それはローマ帝国を支えたのはローマ国民であり、その階層もある程度バランスがとれていないと、国は長続きしません。1000年という歴史が物語っております。

2.ローマ帝国にあった公衆浴場とは
 公衆浴場は、今から2000年近く前、紀元300年ごろに最盛期を迎えますが、始まりはかなり遡ります。紀元前から、新紀元を迎える頃、紀元前33年には、ローマ市内に170箇所の個人経営の公衆浴場があったといいます。しかし、このときの浴場は料金は高いけれども、施設は悪く、狭くて不衛生でもあり、国民からの評判は良くなかったようです。そういうこともあって、帝政初期の紀元前25年には、皇帝がアグリッパに公衆浴場を作らせています。アグリッパという人物は、当時の武将ですが、皇帝の部下として、国務に励んでいます。 ローマ市内初の公衆浴場は乾式のサウナであったそうです。浴槽に浸かる大浴場は紀元80年にコロッセウムの隣りに生まれています。
 ローマ時代の浴場跡は、カラカラ浴場はじめ、いくつかの浴場の遺跡が残っております。その中でもカラカラ浴場は圧巻です。しかも、ここには庭園、体操場、プールもあり、国民のリクレーションセンターとして、広く利用されました。江戸時代の江戸の銭湯とは大違いです。スケールが違います。
 カラカラ浴場は幅410m、奥行き380mの大浴場で、一度に1600人入ることが出来て、1日、6000~8000人が入浴しました。浴場の施設は花崗岩で覆われた丸天井の大広間を中心に、冷浴、温浴、熱浴がありました。このような施設を作るには、給排水、加熱、そして衛生管理などに高度な技術が求められました。
 浴場は次の三つに別れています。
@温気浴室 温度37~39度  滞在時間に制限はない。
      穏やかな暖かさの部屋の中に表面が39度に温められた陶器のベッ
      ドが置かれ、利用者はそこに寝ながら休む。もっとも体が休まる
      温熱療法の部屋。
A蒸気浴室 温度42度   蒸気を利用して、ハーブなどをいれた。香りの
      いいハーブの蒸気が充満した。ハーブはユーカリや松葉などを用
      いていた。
B熱気浴室 温度65度   発汗作用により老廃物の排出を目的とする浴室で、
      冷たいシャワーがあり、熱くなったら、これを顔や手足にかけて
      冷やした。 部屋の温度は温暖なので女性、子供、高齢者も利用
      できた。 滞在時間は最大1時間、 
 
 この時代、どうやって温度や時間を測り、それを管理していたのか知りたいものです。あれだけの巨大な建築物を生み出しているので、科学・技術のレベルは想像以上に高かったのでしょう。参考までに、今の水銀温度計が生まれたのは17世紀ごろといわれています。
 ローマでは、この時点でも混浴の習慣はなく。男女の入浴の場所、脱衣施設ははっきり別れていました。また、たくさんの奴隷がいましたので、更衣の手伝いをしたり、衣服の見張り番をしたり、入浴の手助けをしていました。
 ローマ人がこの巨大な入浴施設を訪れるのは、心身をきれいサッパリということよりも風呂場という社交場で時間を費やすのが、大きな目的でした。仕事は午前中に終えて、それから午後、夕方にかけてゆっくり大浴場へ出かけます。
これは、午後の時間を費やす大仕事です。
 石鹸という入浴には欠かせない用具はまだ出来ていませんが、垢落としのために、身体をごしごし擦る道具は使っていたようです。汚れを落とすには、全身に香油をぬって、汗をかいで汚れを落としていました。石鹸のない時代は、きれいサッパリも大変だったのです。
 

3.どうしてローマ帝国は浴場に力を入れたのか
 ローマ人は入浴が大好きであったと言われています。世界の歴史を見ていて、こういう民族がいたということは珍しいです。というのは、国民が風呂好きというのは、何よりも暮らしの安定がなければなりませんし、余裕がないと、風呂を楽しむことはとても出来ません。
 ローマ人の日常生活は、夜明け早々に仕事は始まり、午後の早い時期に仕事は終わり、家庭を持つものは正午には家に帰ることができました。
 ローマの市民の風呂は、単に入浴するだけでなく、ちょうど今でもそうですが、入浴の施設はリクレーションセンターでもありましたので、入浴を楽しみ、合わせて劇場や競技場もあって、観劇に競技に、入浴客は足を延ばして余暇を楽しみました。
 2000年前の日本、庶民は山野を放浪して、何とか食べ物を見つけて、命をつなぐ、それが生き甲斐でしたので浴場どころではありません。しかし、日本では、場所によっては山野で温泉を楽しむことはできました。
 今日のローマ人は、古代人ほど入浴好きではなく、毎日、風呂に入る人はほとんどいないといいます。これは、今の欧米人一般の暮らしのスタイルであり、
日本から見ると異様に思います。古代ローマ帝国の暮らしぶりから、どうもつながりません、不思議です。そして、今のローマ市内には、古代のような公衆浴場はありません。

4.公衆浴場の運営と管理
 湯を沸かして、給湯する仕組みは遺跡からの類推ですが、かなり手の込んだことをしていました。浴室の壁面に給湯のためのパイプというか、溝ができていて、熱湯が循環して温度を保っていました。熱源は恐らく木材の燃焼でしょうが、大浴場は50mプールぐらいの広さがあり、規模が大きいだけに、使用する湯の量は膨大で、相当量の燃料が必要でした。
 貴族の住宅には、個人用の浴室はありました。
 ローマの水道跡というのは遺跡のなかでも光っています。この水道跡から、当時は給水、給湯にはかなりの技術を持っていたことが分かります。湯を沸かしためておく設備として、ボイラーがあったといいますが、これはレンガ造りの小部屋で、給排水のパイプ(溝)が通じていました。
 とにかく、2000年前のローマ、残された遺跡だけでもすごいのに、その復元というか、当時の様子は日本の国からは、とても想像できないありさまです。
 設備の優れた入浴施設では、技術もさることながら、もっと重要なのは、日常生活において、入浴を取り入れて、衛生のみならず暮らしにゆとりをもたらしたことです。ローマ市民が、入浴を楽しんだといいますが、暮らしぶりの高いレベルを想像させます。それが王侯貴族ならまだしも、市民階級にまでも行き渡っていたといいます。
 また、公衆浴場の普及というと衛生状態の向上、あるいは、伝染病予防という国民の健康暮らしにも関係してきます。いわゆる行政の仕事です。この分野の進展となると、帝国を支配する王侯貴族の進んだ意識がうかがえます。
江戸時代の銭湯の料金は結構高かったようですが、ローマではいかがだったのでしょうか。経済面での詳しい記録は手元にはありませんので、残念ながら分かりません。ローマ市の水道は家庭に供給されていたのですが、料金は請求されていたようです。
 巨大な風呂の湯をどうやって、沸かし、温度を維持したのか、興味あります。
公衆浴場では記録に残っているのはローマが多いいだけに、それ以外の地域、ポンペイでは、ナポリでは公衆浴場の設備、利用はいかがであったのか、知りたいものです。

<参考文献>
吉村忠典:古代ローマ帝国の研究、岩波書店(2003年)
オフィスJB編集:1000年の都 古代ローマ、椛o葉社(2008年)

Posted by 管理者 at 13時18分

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