【延寿通信】 2018年06月25日(月)

延寿通信 第179号 2018年7月

クスノキと樟脳

 樟脳には独特の香りがあります。樟脳はクスノキを水蒸気蒸留して得た油状の物から取り出した結晶で、カンフル・カンファーともいいます。クスノキの葉を揉むだけでも芳香が漂います、それが樟脳の香りです。爽やかな香りですが、しかし、この香りを放つ樟脳は、昆虫にとっては怖い香りであって、虫によってはこれに近づくことはできません。樟脳は虫除け樟脳といわれるほどに、古来、家庭の大事な衣服、書画の虫食い防止に使われています。とはいうものの、街路に生えているクスノキの樹木には虫に食われて孔が開いている葉もありますので、虫といえどもさまざまであると、虫の世の中も広いと、感じさせます。
 わが国におけるクスノキの歴史は古く、樹木の中でも、古い記録に残されている記事の量では上位にあり、日本書紀や古事記などにも、クスノキは登場します。松、杉、イチョウ、ケヤキなどは、都会の身近にある樹木ですが、これらも古いという点ではクスノキと並ぶでしょう。しかし、クスノキは巨木になり、単独で神社・仏閣などの目立ちやすい所にあり、何かと話題になりやすいからか、古木の伝説・記事がたくさん残っています。
 クスノキの漢字には、わが国では「楠」と「樟」とがあり、これらを区別することなく、同じものを意味して、両者は適宜使われています。しかし、中国では、この漢字は別物になっているようです。「楠」は中国ではユズリハという木を意味しており、「樟」は通常はクスノキですが、タブノキを意味する時もあるようです。文字の由来では、「楠」は南国から渡来したと木という意味です。「樟」は材木にした時、木目が美しい模様になっていますので、その意味で、美しい模様を意味する章(あや)という字からきています。クスノキの漢字は、まさに、クスノキを的確に説明しておりますので、二つの文字が同じ扱いになって使われております。幸田露伴はやや見解を異にし、「く」は香りの意味にて、
樟をクスノキというのは香りの強い木という意味であると説明しています。また、樟脳、竜脳の脳は植物の香りの激しいものに使うと言っております。
 わが国では「楠」という字は、樹木のほかに、人名としても使われており、楠木正成の楠一族は大阪河内の土豪で、南北朝時代に関西で活躍しております。「樟」の方は人名では、あまり出てきません。
 クスノキの主要成分カンフルは無色透明の結晶で、この結晶はクスノキから取り出して精製したもので、これを天然樟脳といっており、近年、出回っている化学合成により製造した樟脳は合成樟脳といい、市場では区別されているようです。天然樟脳は国産ですが、合成樟脳は大部分が中国から来ています。
 一昔前、プラスチックスの出現する前はセルロイドが日用品の材料として汎用されました。セルロイドは加工しやすく、扱いやすいので、写真のフイルムや家庭用品、文具などに広く使われましたが、燃えやすいのが欠点でした。このセルロイドの主原料は樟脳です。

1.クスノキという木
 クスノキは、本州の関東以西、九州に多く、韓国の済州島、中国、台湾の南部に生えている常緑の高木です。5月、6月の新緑の頃には、山野の緑を一手に引き受けている感じのする、元気な木です。 
 木の寿命も長いのがあって、何百年、何千年というクスノキの巨木が、日本のあちこちに残っています。クスノキは樹木が集まって森を形成すると言うよりも、単独で生えている場合が多く、そのせいか、樹木は目立ちます。
 樹高は20mになることもあり、幹の太さも2mを超える場合があります。これぐらいの巨木になると、さすがに樹木として真直ぐにはなりにくく、何かにもたれかかったような形になる樹木もあります。例えば、大阪府の巨樹ナンバー2のクスノキ「薫蓋樟」は門真市の神社にありますが、幹の下部は横たわり巨大な岩の塊のようになっています。大阪の巨樹1位はケヤキですが、上位30位の中には、20本のクスノキが入っております。全国の巨樹ランキングでは、上位50本のうち、33本はクスノキで、そのうち半分以上が九州にあります。
 日本一の巨樹は鹿児島県蒲生町の蒲生八幡神社にある蒲生のクスノキで、幹の周りは24.2m、根周りは33.5mです。この木は元気よく茂っており、遠くから見れば山なすごとくです。高さは30mで、割りに姿勢よく上に伸びております。樹齢は約1500年といいますので、弥生時代がようやく終わった頃に生まれました。この頃、まだ日本の国は生まれていません。

2.クスノキと薬
 クスノキという植物そのものを漢方の原料として使うことは非常に少なく、薬との係わりでは結晶の樟脳を化学合成の原料として使うことにあります。そういう意味ではクスノキの爽快な香りは薬らしくなく、どうしても防虫剤のイメージから離れられません。それほどに樟脳の防虫・防腐剤の存在価値が大きいのでしょう。
 植物の香りには薬らしい香りというものがあります。近く、本欄で取り上げる予定のセンキュウ、あるいはトウキという薬草には、いかにも薬らしい香りがあるのですが、クスノキの香りはこれとは大きく異なります。
 樟脳を薬として使う場合は、カンフルと呼ばれることが多いので、この章では樟脳ではなく、カンフルを使います。防虫剤の時は樟脳です。
 薬用植物として、クスノキは薬学の本に出てきます。クスノキ利用の説明を読むと、薬用として使うのは、結晶のカンフルを注射剤にて強心作用で使う場合、もう一つは、皮膚科の領域で使う外用剤で、カンフルを軟膏にして神経痛やしもやけ、打撲傷などに塗り薬で用いる場合です。植物のクスノキの葉や実、あるいは材木を煎じたり粉末にして内服するというのは出ていません。
 カンフルには薬として中枢の興奮作用があり、中国、欧州では古くから用いられてきました。薬としては注射剤で重症の心不全、心衰弱患者の治療に多用されました。そのために、カンフルには、比ゆ的に普通の手段ではどうにもならなくなった物事を回復させる非常手段という意味があり、「カンフル注射を打て」という文句が、薬から離れて、かつては、日常の会話に、マスコミにもよく使われていました。
 

3.防虫剤としての樟脳
 家庭であるいは事務所などで、衣服や文書が虫に食われるということはよくありました。建物の構造、材料の進歩でこういう虫の建物内への侵入は、最近は減りました。包装材料もプラスチックスのいいフイルムが出来てきて、衣服の虫害は減りました。一方では、殺虫剤の成分も変わり、その散布の道具、技術も向上してきましたので効果は上がっています。しかし、虫もどんどん進化しており、防虫剤の出番は一向に減りません。
 その中でも、樟脳は防虫剤として長い歴史があり、江戸時代から、連綿とその役目を果たしてきております。
 樟脳の防虫効果が優れているのは、一つには、樟脳の化学的性質の良さにかかわります。樟脳には適度に揮散して、限られた空間の中で、ガスが漂うという性質があります。防虫剤には、化学製品ではナフタリン、パラジクロールベンゼン、最近ではピレスロイドなどがありますが、衣服防虫剤の大事な性質では、侵入してきた虫を殺してしまうような強い殺虫効果は期待されていません。効果は強烈ではなく、虫が保存品に近づかないようにすること、いわゆる忌避効果が重く見られます。強力な殺虫効果があると大事な保存品に、虫の死骸が残り、汚れ発生の原因にもなります。大事な保管品を守るためには、死骸の発生を厳に避けなければなりません。
 樟脳が高価な衣服の保存に適していることはここにあります。また、衣服に残る香りも馥郁たるものであることが重要です。樟脳は、この意味では最適です。最近では無臭の防虫剤というのが出てきておりますが、無臭というのは、効いているのか、うまくガスが拡散しているのか、などが把握しにくく、この面では欠点にもなります。 かつては、満員の通勤電車で、ほんのり樟脳の香りが漂うのは奥ゆかしいことでしたが、今は、どうも無臭化に移行しているようで、満員の電車も味気なくなりました。

4.クスノキ風呂
 農家では、クスノキの葉を入浴剤として使うことは、古くからあったようです。クスノキの葉を浴槽に浮かばせて入いるのです。民間の風呂の薬湯には、桃の葉やヨモギが古くから使われてきました。ここに、クスノキを並べても不自然ではありませんが、いくらか異質なのか、桃の葉ほどは普及していません。浴槽にはヒノキが古くから用いられ、ヒノキの香りは風呂には最高の贅沢と言われています。クスノキは、木材にいい香りあるものの、浴槽の材料には使いません。 
 今や新緑の季節というか、燃えるかのごとくクスノキは茂っていますので、若い芽を切ってきて葉を浴槽に浮かばせ、香りを楽しむクスノキ湯をお奨めします。
 生薬入浴剤の「延寿湯温泉」には、樟脳油が配合されております。これは、クスノキから搾り出した油分で、結晶の樟脳を取り出した後のものです。樟脳油は「延寿湯温泉」の爽やかな香りの源泉の一つになっております。
 

<参考文献>
・難波恒雄:原色和漢薬図鑑、保育社(1980年)
・牧野和漢薬草大図鑑、竃k隆館(2002年)
・伊藤美千穂 他監修:改訂第2版 生薬単,潟Gヌ・テイー・エヌ(2012年)
・幸田露伴:露伴随筆集(下)、岩波文庫(1993年)
・早川美穂:お風呂大好き、生活情報センター(2003年)

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【延寿通信】 2018年05月25日(金)

延寿通信 第178号 2018年6月

 世界の四大香辛料の一つ チョウジ

 生薬入浴剤「延寿湯温泉」に配合されているチョウジ末は、丁香(ちょうこう)ともいうのですが、かつてはスパイスの王者として香料の世界では貴重な存在でした。もちろん、チョウジは今でも、香料、香辛料として幅広く用いられており、決して過去の産物ではありません。
 香料として用いるチョウジは、チョウジノキというフトモモ科の樹木の花の蕾です。チョウジノキは太陽の暑熱、適度の湿気、海風のそよぎを必要とすると山崎峯次郎は『香辛料』にて述べています。フトモモ科というのは日本には、もともと自生しない熱帯の植物で、オーストラリア、東南アジアなどに生えています。フトモモ科の代表的な樹木であるユーカリノキはオーストラリア原産ですが、日本では家庭の庭園樹、あるいは公園などの街路樹として植えられています。フトモモという木そのものはインドネシア原産です。
 チョウジは世界の四大香辛料(ほかにコショウ、ニッケイ、ニクズク)の一つで、香料、香辛料(スパイス)として長い歴史を有しております。チョウジが使われ始めたのは、記録では中国の漢の時代といいます。BC202年頃から紀元8年ごろかと言う説がありますが、こういう暮らしに直結した食習慣にかかわる話は起原がはっきりしないものです。ヨーロッパでは紀元前古代ギリシヤ・ローマ時代には普及していたといいます。4世紀のヨーロッパではチョウジは貴重で高価な香辛料でした。
 香料、香辛料(スパイス)を求めて15世紀から16世紀にかけて、香料の産地、東南アジアには世界の冒険的商人の関心が集まりました。香料の産地と言うのは世界の限られた熱帯の小さな島ですので、これが世界各地に広まってゆくには、航海の発達や貿易事業の隆盛、さらにこれらに携わる人材の育成などが必要で、どうしても時間がかかります。しかし、14世紀ぐらいまでは、香料、香辛料を使用するのは王族や貴族などほんの一部だけであって、国民に広くは浸透していませんでした。
 薬としてチョウジを使うのは薬効として、鎮静、鎮痙、殺菌、子宮収縮、胃腸運動機能亢進などの作用があるからで、この場合は花の蕾だけではなく樹皮、根なども使います。しかし、中国の薬用植物の16世紀の古典『本草綱目』では、丁香油を香料として僅かに記載しいるだけで、チョウジは薬としては普及していなかったためか、本格的には取り上げていません。

1.チョウジの産地
 香料の産地である香辛料諸島はインドネシアのモルッカ(マルク)諸島が該当し、ここのハルマヘラ島のテルナテが中心になっています。このあたりは諸島といわれているだけにたくさんの小さな島が集まっています。この地、スパイスアイランド(香辛料諸島)へは、15世紀、ヨーロッパに始まった大航海時代に、西欧諸国の探検家は船団を組んで莫大な労力と時間をかけて、はるばる集まってきました。ここでは、香料を求めて出かけてきた冒険家たちが香料奪い合いの血みどろの戦いを繰り広げたといいます。
 チョウジは、本来は調味料ですが、香辛料として、薬として商品化されて、需要は世界に広がってゆきました。チョウジは中国の貿易品で、実際には中国では産出しないのですが、自国産出品のように見せかけて出荷していました。この時点では実際の原産地は秘密になっていました。チョウジを世界に広めたのは中国人とインド人です。
 産地は上述のようにインドネシアのモルッカ(マルク)諸島ですが、ここから、どのように中国へ出て行ったのか、この時代のこと、貿易の記録はなく、明らかではありません。東南アジアとはいえ、チョウジの原産地は特定の小さな島であり、近いけれども中国からは簡単に寄り付くことは出来ません。しかし、当時の中国は漢の時代から南海への進出は始まっており、この地帯の情報は集まっていました。漢の時代の前、秦の始皇帝は天下を統一して海外への憧れもあって、関心を深めていました。始皇帝は、不老不死の薬を求めて近辺の海外へ人材を派遣し、交易のきっかけを得ることに意欲を持ち、いわゆる南方貿易もこの頃に始めています。当時の記録では南方諸国、アラビアあるいはセイロン島なども中国の貿易相手国として登場しています。

2.チョウジの歴史と香り
 中国では、漢の時代、2000年前ですが、宮廷で高官が天子に具申する場合には、吐く息の香りをよくするためにチョウジを口に含むことが決まりになっていました。チョウジの使用例としては、この話はかなり古く、口臭防止剤としての役割が、チョウジの歴史の始まりのように扱われています。
 しかし、17〜18世紀ごろは化粧水、香料にも使われ、時には伝染病予防にも用いられました。伝染病の予防では、特にコレラですが、この時は医師には特別の予防服が考案されて、たとえば、真っ黒な皮革製のガウン、皮手袋、革靴、皮製のズボンと革製マスクで、両目には丸い穴があってガラス製、鼻には鳥のくちばしのような器具を用い、この器具には香辛料を詰めていました。それはチョウジとニッケイで、エキスを海綿に染み込ませたものです。
 当時は伝染病は空気伝染するものと考えられていましたので、このように厳重に外の空気を遮断する工夫が採られていました。街の中、あるいは住宅でも、チョウジやオレンジ、レモンの香りを漂わせることは病気の伝染防止に役立つと考えられていました。また、香りのいい植物のエキスを身に付けていると病気にかからないという言い伝えもあり、頻繁に使われました。
 シエクスピアの作品では衣装の防虫にチョウジを使う場面が出て来ます。 今でもチョウジは衣服の防虫にいいということで衣装箪笥にぶら下げる人はいます。
 そのほか歴史的に見たチョウジの利用では、吐き気、船酔い防止、あるいは筋肉痛の治療に、さらに、インドネシアでは紙巻タバコに配合するとタバコの香りが良くなるということもあって、使われていたと言うことです。15世紀のイギリスでは、耳の調子悪い時に使ったといいますが、これはチョウジの香りというよりも、精油揮発成分の利用になるのでしょう。

3.日本のチョウジ
 わが国の医薬の歴史は現実に残されているものから取り上げるとすれば、奈良時代の正倉院にある薬物をまず見ることになります。そのためには、正倉院薬物の記録である「種々薬帳」が最初にあげられます。この「種々薬帳」では、漢方薬のダイオウ、ニンジン、カンゾウなどがあり、さらに香辛料ではコショウ、ニッケイなどが見られますが、チョウジは挙がっていません。しかし、現物が正倉院に残っているといいます。
 また、源氏物語には丁子染めという文字が出てきますが、これらの時点では、中国から薬用植物の書物は日本にはいろいろ来ていましたので、本草家以外にもチョウジの名前ぐらいは知られていたのでしょう。しかし、当時は貴重品として僅かに伝わった程度で、本来の香としての利用は、もっと後です。チョウジが香の材料として日本に来たのは、欧州に比べてだいぶ後で、江戸時代以降、17世紀中ごろかと言われています。
 チョウジが多く使われる料理の中味は、日本と西欧とはまったく異なります。チョウジは西欧では肉料理には欠かせない香辛料ですが、日本の料理では牛や豚の肉類を油を用いて焼いて使うことがほとんどなかったので、料理にチョウジを使いたいと言う声は日本では大きくはなかったようです。
 室内の薫香料では、古来、日本ではビャクダン、ジンコウなど仏教関連の香につながる東洋の香料が広まっており、わざわざ西洋の香りに飛びつく必要はありませんでした。たとえば、ラベンダーと言うのは西欧では、代表的な香料として暮らしに広く使われていますが、日本へ来たのは近代洋風の風向きになってからで、江戸末期から明治のはじめです。
 わが国では、チョウジは高価な香料として大事にされ、チョウジ油、チョウジ紙、チョウジ染め、チョウジ風炉などが生まれ、香りを活かして新たな用途を生みだしました。
 たとえば次のような商品があります。
・チョウジ油:チョウジを水蒸気蒸留して得られたこ香料で、化粧品として、 
       薬味料、薬用で利用された
・チョウジ紙:書に用いる装飾料紙で淡紅色、紅褐色の紙をつくる
・チョウジ染め:チョウジの蕾を煎じてその益を染料として使う。薄茶色
・チョウジ風炉:香炉にてチョウジを煎じ香気を出し、室内の防臭に使う
・チョウジ袋:匂い袋、チョウジを詰めた小袋で着物の裏に入れた 

4.チョウジの風呂
 チョウジの香りを活かしたチョウジ風呂は、爽やかな香りで入浴を楽しませてくれます。チョウジ風呂は汗臭いからだの悪臭をすっかり取り除き、回りを爽やかな雰囲気にするといいます。丁子風呂に入った人は、爽やかになり快適であると、述べています。
 宗教的な行事の一つとして、修行僧が密教では浄衣を着る前に、チョウジを入れた風呂に入り、口にチョウジを含み、さらに衣類を丁子の香で清めるということがあったそうです。
 京都には丁子風呂町(ちょうじぶろまち)という地名があり、今も健在です。この町は、京都市上京区にあって、市内の中央、元の府庁本館の近くです。由来は江戸時代、ここに「丁子風呂」という銭湯があったからだそうです。この時点では、チョウジは日本に来たばかりですので、早速、これが風呂に使われたことになります。チョウジの風呂は、歴史的には古く、チョウジの日本への渡来が、この目的であったのではないかという説もあるほどです。
 このチョウジの役割を、そのまま受け継いだのが生薬入浴剤「延寿湯温泉」で、配合されているチョウジ末が浴槽にて効果を発揮します。しかし、「延寿湯温泉」には、ほかにも芳香性生薬が含まれていますので、残念ながらチョウジ単独の香りを感じ取ることは難しいようです。
 丁子風呂と、よく似た言葉に「丁子風炉」がありますが、風炉は「ふろ」とも読みます。通常は「ふうろ」で、これはチョウジを用いた香炉です。チョウジを燻らせて室内に香りを漂わすために使います。

<参考文献>
・難波恒雄:原色和漢薬図鑑、保育社(1980年)
・牧野和漢薬草大図鑑、竃k隆館(2002年)
・木村康一ほか校訂:新注 国訳本草綱目、春陽堂書店(1974年)
・山田憲太郎:スパイスの歴史、法政大学出版局(1979年)
・山崎峯次郎:香辛料 1-4、ヱスビー食品梶@(1973年)

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【延寿通信】 2018年04月23日(月)

延寿通信 第177号 2018年5月

蒸気浴から浴槽へ

---公衆浴場の始まり


 銭湯は奮闘していますが、このところ廃業する銭湯が目立ち、大阪府では、最近10年間に、営業している銭湯は半分近くになってしまったと報告しています。銭湯の最盛期は昭和30年代から40年代といわれていますので、今から50年前にさかのぼり、昔の話になりつつあります。
 住宅事情がよくなって、風呂付の住宅が増加したこと、またマンションなども規模が小さくても風呂付がほとんどです。これらが銭湯不振の理由なのですが、しかし、広い浴槽で伸び伸びという人もあって、自分の家に風呂があっても、わざわざ銭湯へ出かける人がいるなど、銭湯ファンは少なくはありません。
 銭湯もいろいろ工夫して客を集めています。「延寿湯温泉」を入れた薬湯だけでなく、以前に紹介したように、さまざまな企画で客を集める工夫をしています。生薬を入浴剤として使っているところもあります。銭湯の入り口には、「今日はトウキの湯です」と貼っているのを見かけました。この銭湯は、使用している生薬(薬用植物)の名前を大きく貼り出していますので、いろいろの生薬を使っていることが分かります。現実に、公衆浴場で使う風呂用の生薬を漢方薬局に注文しているところもあるようです。
 以前に、本欄にて公衆浴場の始まりは寺院の施浴に始まると書きました。施浴というと、古いのでは奈良時代までさかのぼります。近くの人が参拝で集まってきて、次いで寺の大浴場に入る、あるいは、入浴の出来ない環境にある人たちを招いて入浴してもらう、このような光景が、やがて公衆浴場への発展へとつながってゆくという説です。もともと入浴ということ、そのものが宗教行事にかかわりがあり、入浴は寺院では僧侶の修行の一つになっているところがあります。
 京都、山科にあった本願寺は1400年半ばから1500年にかけて栄え、現在の東西本願寺に発展してゆくのですが、2012年、この山科本願寺の跡が調査された時に大きな浴場の跡が発掘されています。この風呂跡は石風呂で、釜風呂の一種と推定されています。
 公衆浴場の始まりは、上述の寺院による施湯の場合と、もう一つのケースがあります。それは、各地山野の自然に湧き出た温泉を近くの人が利用し、やがて、これが発展し、建物が出来て、衛生管理に配慮した便利な施設になってゆく場合です。この施設は、客が増えるにつれて増加する維持管理の費用を利用者に負担して貰うようになり、有料の入浴施設へと移行してゆきます。

1.風呂の誕生
 みんなで入浴となれば、始まりは村の温泉でしょう。人は身体を洗うために川や泉などの水、あるいは湧き出ている湯につかるのは自然の成り行きです。
これは人が生きている限り、常にあって暮らしには欠かせない行為になります。  
 本年4月4日の朝日新聞は「ニホンザルもいい湯だな---温泉でストレス解消」という記事を掲載し、長野県・地獄谷野猿公苑のニホンザルの生態を研究している京都大学霊長類研究所の調査結果を紹介しています。温泉に入浴した週は、入浴しない週よりも、ストレスホルモンの濃度が低く、ストレスの軽減されていることが分かったといいます。山野の動物たちが温泉を利用していたという話はあまたあり、湯に浸かるのは身体を休め、心を休め、明日のエネルギーを生む温床でした。
 しかし、自然に恵まれた暖かい湯の出る温泉とは別に、わざわざ湯を沸かして、その湯に浸かるとなると起源は単純ではありません。
 風呂の始まりでは、水を運んできて湯を沸かして入浴するというのは、設備が大掛かりになりますので、それ以前に、焚き火後の灼熱した石に水をかけて、蒸気を浴びること、これが入浴の始まりであるという説があります。この場合は、湯桶も湯釜も要らないので、道具も、設備もない昔の暮らしには、確かに始まりにはふさわしいかもしれません。この蒸気浴をした遺跡は、浴場というほどでもなく、囲まれた石組みだけですので、近代の物は別として、歴史的な遺跡は少ないようです。
 各地山野の自然に湧き出た温泉は、次第に営業という形態に変わってゆきますので、野外の温泉場は囲いと屋根のある浴場に変わり、有料にふさわしいサービスのできるような形態になります。
 先に、15世紀の本願寺跡の風呂が石風呂であったということを紹介しましたが、その発掘された跡地の記録を見ると、京都府にある八瀬の釜風呂の共通点が指摘されています。この八瀬の釜風呂は歴史を手繰ってゆくと1300年前の白鳳時代にたどり着きます。釜風呂というのは蒸し風呂です。八瀬の釜風呂はこのように長い歴史があるのですが、今も営業しており、「1300年も息づく日本古来のサウナです」と宣伝もしています。特に、ここでは熱気療法というのを奨めており、釜風呂の大きな釜の中にはいると、数名の寝転ぶ場所があり、10〜20分間静かにしていると、盛んに汗が出て、ころあいを見て別の浴槽に移ります。
 このように特定の場所にこもって、浴槽には入らないで、熱気もしくは水蒸気によって汗を流すのが、浴槽を使う前の風呂の様子です。

2.光明皇后の千人風呂
 公衆浴場の歴史上一つの流れとして、お寺との関係を先に述べました。入浴を宗教行事としてとらえ、この習俗が銭湯につながってゆくという説ですが、風呂に入ることそのものが、仏教上の行事であるとみなすのです。神社仏閣には、かならず手洗い場あり、ここで身を清めてから、本殿に近づきます。これは入浴を簡略化したものであるともいいます。
 お寺で沢山の人が入浴することでは、光明皇后の千人風呂の伝説が残っています。光明皇后は、1300年ほど前ですが、奈良で施薬院を興して、病人に薬草を与えて治療を施し、さらに、この人たちに入浴の機会を与えました。これが、千人風呂といわれているのですが、光明皇后にゆかりのある奈良市の法華寺では風呂の跡を「から風呂」といって大事にされています。この風呂は蒸し風呂で、国の重要有形民俗文化財にも指定されており、今もなお、年に一度、蒸し風呂が用意されて、ファンがつめかけています。
 東大寺にも大きな浴室が残っております。これは、今日の解説では僧侶のための沐浴施設であると書いています。東大寺は1180年に平重衡による南都焼き討ちで焼失しますが、1197年、東大寺再建の際に、この大湯屋は併せて再建されました。この湯屋には鎌倉時代の年号のある大きな鉄の湯舟(口径2.3m,高さ80cm)が残っており、昨年はじめて一般に公開されました。東大寺の大湯屋も湯を炊く大釜は残っているというものの、浴槽に浸かるのではなくサウナのように利用する方式といいます。

3.有料の入浴施設 公衆浴場(銭湯)の始まり
 銭湯の前に町風呂というのが江戸時代以前にあり、これがどうも有料の公衆浴場の始まりではないかと、思われます。町風呂の始まりは1400年ごろといわれており、京都で見られたのですが、やがて江戸においても、これが発展してゆきます。1590年に大阪に風呂屋が出来たという記事が『歴世女装考』という本に出ており、江戸で伊勢の与市が銭湯を始めたのが1591年といいますので、銭湯の始まりは大阪のほうが早かったということになります。この風呂は蒸気浴でした。
 これが湯風呂になるのは17世紀中ごろのことです。江戸の銭湯は、はじめは蒸し風呂ですが、17世紀後半から、次第に湯につかる風呂に移ってゆきます。この頃の風呂は「ざくろ風呂」あるいは「板風呂」とも言われ、浅い浴槽にわずかばかりの湯が入ってはいましたが、本体は蒸し風呂であったようです。
 1814年、『守貞漫稿』に戸棚風呂というのが銭湯にあるということが出てくるのですが、この風呂は「浴槽ははなはだ浅く、湯やや1尺(30cm)ばかり膝をひたすのみなれば、引き違い戸を用いて湯気をもらさない・・」と説明しています。蒸し風呂に浅い浴槽があったということです。
 「ざくろ風呂」というのは、三方を板で囲み、前の部分のみ引き戸で、中に入ると膝までぐらいの浅い浴槽があり、しゃがんで湯に浸かると、ようやく下半身を没することが出来たといいます。この「ざくろ風呂」というのは、江戸の銭湯では元禄の頃、1700年ごろから長く使われ、一部では明治まで残っていました。
 銭湯は蒸し風呂から次第に浴槽方式に変わってゆきます。浴槽に浸かる方式が好まれたのは、一つには温泉に浸かることが浸透していたこと、さらに、家庭では行水がしばしば行われており、湯に浸かる機会が多かったことなどによるといいます。
 公衆浴場は、江戸末期から明治の初めにに日本にやって来た外国人には珍しい施設であったようで、浴場の光景を本国に報告しています。その当時、欧米には、公衆浴場というものが限られていたのでしょう。温泉も日本ほど、あちこちにはなく、温泉利用者は限られていました。欧米には、わが国に多い温泉にかかわる文学はほとんど見られません。外国人が特に珍しかったのは男女混浴の様相で、報道者としては公衆浴場、その風景は興味本位のテーマでもあります。1854年のペリー一行の報告をはじめとして、欧米人の報告記事は多々あります。
 明治になってからも、銭湯はますます繁盛し、都会を中心として全国いたることころに営業が展開されました。近代化とともに衛生的ということが暮らしには欠かせない要件となり、浴場の衛生を求める客の声は高まり、一方では、入浴することによる身体の衛生の必要も重く見られるようになりました。
 公衆浴場での衛生は、明治初めは地域衛生の管轄が警察でもあったので、浴場の取締りでは、衛生管理以外に、裸の人たちの道徳的な問題と、それに火災防止に重点が置かれました。特に、江戸では火災が多く、銭湯の防火対策には細かい規制があったようです。
 銭湯の入浴料金は地方にて定められるので国内一律ではありません。東京都のデータを見ますと、大人(12歳以上)の場合、1948年は6円でしたが、10年後に16円、20年後の1968年は35円、そして今は460円です。大阪府の今の料金は、大人(中学生以上)440円、中人(小学生)150円、小人(幼稚園以下)60円となっています。つい最近、4月1日から兵庫県は公衆浴場の料金を10円あげるという記事が出ていました。料金値上げは知事の指定によるということです。大人の場合、値上げ後の兵庫県の料金は430円です。
 値上げの理由は公衆浴場の経営安定化と利用者の入浴機会の確保です。
 

<参考文献>
・朝日新聞近畿版:2018年4月4日 第1面
・中野栄三:銭湯の歴史、雄山閣(1970年)
・森まゆみ:30年後の谷根千、scripta vol11、no4、紀伊国屋書店、(2017年)
・川端美季:近代日本の公衆浴場運動、法政大学出版局(2016年)

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