【延寿通信】 2019年01月25日(金)

延寿通信 第186号 2019年2月

タオル・手ぬぐいの話
 入浴に欠かせないものとして、先に石けんを取り上げましたが、もう一つあります。それはタオルや手ぬぐいです。
 先日、松山市へ行った際に、商店街を歩いていたら、そこに大きなタオルの店があって、大小さまざま、色とりどりのタオルが、店一杯に広がっているのを見ました。これほど、たくさんのタオルを並べることが出来るのは、近くにタオルの生産地今治があるからでしょう。関西では、ちょっと見当たりません。     
 タオルといえば、わが国では三大生産地として、愛媛県の今治タオル、大阪府の泉州タオル、三重県のおぼろタオルがあり、この中で、現在は、今治が生産量第一にあるといいます。
 この、三大タオルには、それぞれに特徴があって、ドレもこれも同じものではないようです。
 今治タオルは吸収性の高さが特徴で、それは、タオル作りに必要な良質の水に恵まれているからだそうです。
 泉州タオルは洗濯で縮みにくい性質で重宝されており、やはり良質な軟水がいかされているからといいます。
 三重県のおぼろタオルは津市で作られており、繊細なタオルで軽い肌触りが特徴です。
 タオル(towel)とは、その名前からして日本古来のものではありません。タオルは、どこから、いつごろ日本に来たのでしょうか。

1.タオルの歴史
 わが国のタオル生産は大阪で1880年ごろに始まりました。大阪では製法の改良、機械の開発などタオル生産の改善はどんどん進みましたが、1889年には、
愛媛県の今治でも生産が始まり、わが国のタオル2大生産地が、この時点で確立しました。
 今治という地域は、もともと綿花の産地で、江戸時代後期に木綿の生産が始まり、全国に伊予木綿を広めてゆきました。その後、木綿の生産は大阪や兵庫などに広まって発展したため、今治の綿生産は衰退します。そこで、この地の綿業生産者がタオル生産に目を向けて、タオルの織機を導入し、1894年にタオルの生産を始めました。
 タオルというのは、フランスで1811年ごろに考案され、はじめ、絹糸であったのが、のちに綿糸になり、それが、1864年に、アメリカに渡って生産は工業的に拡大し、タオル生産の主体はアメリカに移りました。タオルというのは生まれて200年で、歴史的には、さほど古いものではないようです。
 タオルは布としては複雑な構造ですので、織機の開発、工業的な生産体制の整うまでに時間がかかったのでしょう。
 明治の初め、タオルが輸入されていたころ、タオル使用の目的は手ふきではなく、首巻、襟巻きとして大事に使われていました。タオルが浴用あるいは身体を拭くのに使われるようになるのは、1900年ごろからです。
 バスタオル(湯上りタオル)というのは、今ではタオルの一番大事な役割なのですが、これが使われるようになるのは、日本では昭和初期以降(1925年ごろ)です。また、湯上りに着るバスローブが普及するのは、1907年に商品が初めて市中に出たのですが、一般に広く普及するのは1925年ごろからのようです。
 昭和になってから、タオル業界は大躍進で、タオル商品が増えてきました。バスタオルをはじめとして、バスローブ、寝冷え知らず、パジャマ、ガウン、さらに肌着から、カーペットの分野までひろがりました。
 商品の充実につれて、消費者のタオルの品質に対する要望も高まってきて、1932年には、タオル製品は浴巾、バスタオル、反物、腰巻、ハンカチーフの5品種に区分され、タオルケットという和製英語まで生まれました。この時点で、品質の規格も生まれました。
日本手ぬぐいというのは、タオルに押されて、だんだん減ってはきましたが、簡易な素材で、デザインも工夫できることから、今もなお、一分野を保っております。特に、1945年前後、戦中,戦後の暮らしの逼迫した時代はタオルどころではなく、日本手ぬぐいの最盛期でした。日本手ぬぐいは鉢巻には欠かせません。戦中の神風特攻隊を、今日、表わす際には、この日の丸日本手ぬぐいが主役になります。

2.タオル提げて歩く人
 冒頭にも述べたように、風呂、入浴にはタオルが必要です。タオルをブラ提げて、湯桶を持って街を歩く姿は、一時代前の銭湯常連客お決まりの姿になりました。
 銭湯や宿の風呂に入る場合には、実際には体を洗うためのタオル、それと身体を拭いて乾かすタオルの2種が必要です。銭湯のような共同風呂では、浴槽にタオルを入れるのは浴槽の衛生状態を保つために厳禁になっており、浴槽で、ゆったりタオルで身体を拭いたりするのは個人用の風呂に限られています。
 風呂上りのタオルは大型で、浴槽、洗い場で使うタオルとは別になっていました。風呂から上がり、大きな乾いたタオルで身体を拭い、水をきってさっぱりするのは気持ちよいものです。これにはぱりぱりに乾いたタオルがいります。
 温泉街では、男女ともども老いも若きもタオルをぶら下げて、あるいは湯桶に入れて歩く姿は欠かせない光景で、ほのぼのさせます。
 一方、酷暑の時期には、街や日陰で、汗ぬぐう人たち、あるいは農村、道路で働く人たちは、流れ出る汗にタオルが活躍です。
 

3.鉢巻の手ぬぐいの歴史と産地
 勇ましく立ち向かう時のりりしいスタイルの人の鉢巻といえば、男性にも女性にも日本手ぬぐいが映えます。タオルでは役に立ちません。みこしかつぎなど荒々しい人たちの鉢巻は、壮観です。帽子姿では、演出不十分です。しかし、景気のいい魚屋さんのスタイルでは、手ぬぐいよりもタオル鉢巻が似合います。
 手ぬぐいは鎌倉時代から暮らしに使われ始めたそうですが、もともと原料となる綿花の栽培が江戸時代から始まったことから、一般への普及は、この頃からではないかといいます。手ぬぐいは綿織物の単なる切れ端ということから、身の回りの品物としては、道具というほどでもなく、洗面用具としての普及ということになります。手拭いの用途といえば、汗を拭いたり、あるいは濡れた手を拭いたりで、さほど難しい仕事には登場しません。
 日本手ぬぐいは、タオルのように専門の機械でわざわざ作るものでもなく、布の切れ端ですので、誰でもどこでも簡単に手に入る代物です。
 近年になって、派手なデザインや、瀟洒な柄が、手ぬぐい独特の世界を造りつつあります。手ぬぐいは意匠によってがらりと趣が変わります。
 タオルと違って、手ぬぐいには産地というのが決まっていないのですが、綿織物の産地が浮かび上がってきます。この綿織物には、日本の四大産地として、静岡県、愛知県、兵庫県、大阪府が出てきます。
さらに詳しく調べてゆくと、綿も含めて織物全般の産地としては
米沢、栃尾・見附、桐生、富士吉田、天龍、遠州、三河,尾張、北陸、湖東、泉州,丹後、西脇、三備、今治、博多などが出てきます。
 この中で、三河地区は日本の綿花栽培発祥の地になっています。799年にここに漂着したインド人が綿の種栽培方法をもたらしたのです。しかし、当地で産業として実際に綿栽培が始まったのは1500年ごろであり、やがて、三河は日本の大産地として発展して行くのですが、これは近代、明治の初めで、この時点で織、染め、縫製まで一貫して供給出来るようになりました。
 昨今の手ぬぐいの話題は、もっぱらデザインです。色、柄が豊富というか、
手を拭いたり、汗を拭うのが惜しくなるような手ぬぐいが出回り、部屋の装飾品として飾っておきたいようなのがあります。手ぬぐいのこれからの道を示しているかのごとくです。

<参考文献>
佐藤可士和・四国タオル工業組合:今治タオル奇跡の復活--起死回生のブラン戦略、朝日新聞出版、(2014年)
宇高福則:進化するタオル文化、繊維製品消費科学、45巻、No.8(2004年)
藤岡徹朗:タオル、タオルケット、タオル製品の変遷、製造方法、繊維製品消費科学、41巻、No.2(2000年)

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【延寿通信】 2018年12月21日(金)

延寿通信 第186号  2019年1月

 古代ローマ帝国の大浴場


 わが国の人たちはまだ、穴蔵に近い所で、魚鳥や草根木皮を採取して暮らしていた頃、古代ローマ帝国は燦然たる大国家として、石造の巨大な建築物が並び、立派な道路網もあって、国民は華やかな暮らしを楽しんでいました。
 ローマには遺跡として、石造の建物、道路、水道などのほか、神殿、競技場なども残っており、もちろん豪華な浴場の跡もあって、これらが当時の暮らしを偲ばせます。
 ローマ帝国というのが生まれるのは、紀元前8世紀にローマに人が住み始め、紀元前4世紀ごろには、立派な城壁も出来て豊かな暮らしが展開され、国らしくなってきました。今から2000年前の話です。ローマ帝国は約1000年にわたり栄えて、これが滅亡するのは、西ローマ帝国は476年に、東ローマ帝国は1453年です。
 クレオパトラとシーザー(カエサルともいう)は、ちょうど紀元前の世紀の終わる頃に、このローマ帝国で活躍し、数々の話題を残しています。
 ローマ帝国は古い、長いというだけではなく、華々しい文化を残したことで新しい世界の歴史を造りました。わが国では縄文時代が終わって、弥生時代から古墳時代にかけての頃であり、山野の自然に囲まれ、文化生活には程遠い暮らしをしていました。この時代が、ちょうど西ローマ帝国の時代に当ります。
 ローマ帝国では、石造の巨大な町が出来て、都市計画も整然と進み、今日、たくさんの遺跡が残っております。その中で、今回取り上げたいのが公衆浴場です。ローマ帝国は、国民の衛生・入浴には特に気を配り、巨大な公衆浴場を建設して運営しました。
 わが国の銭湯の歴史を見てみると、ローマ帝国の時代から1500年もあとですが、江戸時代のはじめには、京、江戸に銭湯が出来て、大繁盛であったといいます。それ以前は、まだ、殺伐とした世の中で、鎌倉・平安時代では、庶民は住む場所の確保に追われて、風呂どころではありませんでした。

1.ローマ帝国とはどういう国であったか
 ローマに帝政の成立したころ、全帝国の人口は5~6000万人で、ローマ人は500万人前後、このうちイタリア以外に住むローマ人は120万人いたといいますので、ローマという国の地中海沿岸はじめ、海外に伸びる勢力は大なるものがありました。
 ローマに何かあって、軍事力を必要とするときには、地中海沿岸の諸国から各地の指導者が兵士を連れて支援に来る体制も出来上がっていました。このような体制は紀元前2世紀にかけて出来上がっており、政治的にも軍事的にもローマは世界の中心でした。
 ローマ帝国には、たくさんの奴隷がいましたが、この奴隷も一定期間働くと、市民階級に繰り入れるようになっており、これは、当時の国々には見られないローマ帝国の特徴でした。奴隷というのは、戦いで勝ち取った外国人、あるいは人身売買で取引され、海外から来た人たちで、上層階級の家で強制労働させらていました。
 このように、当時は階級というか、国民の層は別れてはいましたが、帝国というだけに、皇帝が君臨して国を治めていました。皇帝あるいは王という最高の権力者がいて、その命令に従って国民が支配される政治体制が帝国です。政治体制では、皇帝の存在は当然とはいえ、国民の参画も時にはあり、共和制の時期もありましたが、何分にも長い歴史の過程で変転しています。
一般に、ローマ帝国の国情あるいは暮らしの説明では、神殿のみならず、豪華な石造の建築物が町に並んで、豊かな様相が浮かび上がってきます。それは限られた富裕な階層の話です。しかし、ローマ帝国では貧困層はいても、アジアの国々よりは恵まれていたのではないかと察します。それはローマ帝国を支えたのはローマ国民であり、その階層もある程度バランスがとれていないと、国は長続きしません。1000年という歴史が物語っております。

2.ローマ帝国にあった公衆浴場とは
 公衆浴場は、今から2000年近く前、紀元300年ごろに最盛期を迎えますが、始まりはかなり遡ります。紀元前から、新紀元を迎える頃、紀元前33年には、ローマ市内に170箇所の個人経営の公衆浴場があったといいます。しかし、このときの浴場は料金は高いけれども、施設は悪く、狭くて不衛生でもあり、国民からの評判は良くなかったようです。そういうこともあって、帝政初期の紀元前25年には、皇帝がアグリッパに公衆浴場を作らせています。アグリッパという人物は、当時の武将ですが、皇帝の部下として、国務に励んでいます。 ローマ市内初の公衆浴場は乾式のサウナであったそうです。浴槽に浸かる大浴場は紀元80年にコロッセウムの隣りに生まれています。
 ローマ時代の浴場跡は、カラカラ浴場はじめ、いくつかの浴場の遺跡が残っております。その中でもカラカラ浴場は圧巻です。しかも、ここには庭園、体操場、プールもあり、国民のリクレーションセンターとして、広く利用されました。江戸時代の江戸の銭湯とは大違いです。スケールが違います。
 カラカラ浴場は幅410m、奥行き380mの大浴場で、一度に1600人入ることが出来て、1日、6000~8000人が入浴しました。浴場の施設は花崗岩で覆われた丸天井の大広間を中心に、冷浴、温浴、熱浴がありました。このような施設を作るには、給排水、加熱、そして衛生管理などに高度な技術が求められました。
 浴場は次の三つに別れています。
@温気浴室 温度37~39度  滞在時間に制限はない。
      穏やかな暖かさの部屋の中に表面が39度に温められた陶器のベッ
      ドが置かれ、利用者はそこに寝ながら休む。もっとも体が休まる
      温熱療法の部屋。
A蒸気浴室 温度42度   蒸気を利用して、ハーブなどをいれた。香りの
      いいハーブの蒸気が充満した。ハーブはユーカリや松葉などを用
      いていた。
B熱気浴室 温度65度   発汗作用により老廃物の排出を目的とする浴室で、
      冷たいシャワーがあり、熱くなったら、これを顔や手足にかけて
      冷やした。 部屋の温度は温暖なので女性、子供、高齢者も利用
      できた。 滞在時間は最大1時間、 
 
 この時代、どうやって温度や時間を測り、それを管理していたのか知りたいものです。あれだけの巨大な建築物を生み出しているので、科学・技術のレベルは想像以上に高かったのでしょう。参考までに、今の水銀温度計が生まれたのは17世紀ごろといわれています。
 ローマでは、この時点でも混浴の習慣はなく。男女の入浴の場所、脱衣施設ははっきり別れていました。また、たくさんの奴隷がいましたので、更衣の手伝いをしたり、衣服の見張り番をしたり、入浴の手助けをしていました。
 ローマ人がこの巨大な入浴施設を訪れるのは、心身をきれいサッパリということよりも風呂場という社交場で時間を費やすのが、大きな目的でした。仕事は午前中に終えて、それから午後、夕方にかけてゆっくり大浴場へ出かけます。
これは、午後の時間を費やす大仕事です。
 石鹸という入浴には欠かせない用具はまだ出来ていませんが、垢落としのために、身体をごしごし擦る道具は使っていたようです。汚れを落とすには、全身に香油をぬって、汗をかいで汚れを落としていました。石鹸のない時代は、きれいサッパリも大変だったのです。
 

3.どうしてローマ帝国は浴場に力を入れたのか
 ローマ人は入浴が大好きであったと言われています。世界の歴史を見ていて、こういう民族がいたということは珍しいです。というのは、国民が風呂好きというのは、何よりも暮らしの安定がなければなりませんし、余裕がないと、風呂を楽しむことはとても出来ません。
 ローマ人の日常生活は、夜明け早々に仕事は始まり、午後の早い時期に仕事は終わり、家庭を持つものは正午には家に帰ることができました。
 ローマの市民の風呂は、単に入浴するだけでなく、ちょうど今でもそうですが、入浴の施設はリクレーションセンターでもありましたので、入浴を楽しみ、合わせて劇場や競技場もあって、観劇に競技に、入浴客は足を延ばして余暇を楽しみました。
 2000年前の日本、庶民は山野を放浪して、何とか食べ物を見つけて、命をつなぐ、それが生き甲斐でしたので浴場どころではありません。しかし、日本では、場所によっては山野で温泉を楽しむことはできました。
 今日のローマ人は、古代人ほど入浴好きではなく、毎日、風呂に入る人はほとんどいないといいます。これは、今の欧米人一般の暮らしのスタイルであり、
日本から見ると異様に思います。古代ローマ帝国の暮らしぶりから、どうもつながりません、不思議です。そして、今のローマ市内には、古代のような公衆浴場はありません。

4.公衆浴場の運営と管理
 湯を沸かして、給湯する仕組みは遺跡からの類推ですが、かなり手の込んだことをしていました。浴室の壁面に給湯のためのパイプというか、溝ができていて、熱湯が循環して温度を保っていました。熱源は恐らく木材の燃焼でしょうが、大浴場は50mプールぐらいの広さがあり、規模が大きいだけに、使用する湯の量は膨大で、相当量の燃料が必要でした。
 貴族の住宅には、個人用の浴室はありました。
 ローマの水道跡というのは遺跡のなかでも光っています。この水道跡から、当時は給水、給湯にはかなりの技術を持っていたことが分かります。湯を沸かしためておく設備として、ボイラーがあったといいますが、これはレンガ造りの小部屋で、給排水のパイプ(溝)が通じていました。
 とにかく、2000年前のローマ、残された遺跡だけでもすごいのに、その復元というか、当時の様子は日本の国からは、とても想像できないありさまです。
 設備の優れた入浴施設では、技術もさることながら、もっと重要なのは、日常生活において、入浴を取り入れて、衛生のみならず暮らしにゆとりをもたらしたことです。ローマ市民が、入浴を楽しんだといいますが、暮らしぶりの高いレベルを想像させます。それが王侯貴族ならまだしも、市民階級にまでも行き渡っていたといいます。
 また、公衆浴場の普及というと衛生状態の向上、あるいは、伝染病予防という国民の健康暮らしにも関係してきます。いわゆる行政の仕事です。この分野の進展となると、帝国を支配する王侯貴族の進んだ意識がうかがえます。
江戸時代の銭湯の料金は結構高かったようですが、ローマではいかがだったのでしょうか。経済面での詳しい記録は手元にはありませんので、残念ながら分かりません。ローマ市の水道は家庭に供給されていたのですが、料金は請求されていたようです。
 巨大な風呂の湯をどうやって、沸かし、温度を維持したのか、興味あります。
公衆浴場では記録に残っているのはローマが多いいだけに、それ以外の地域、ポンペイでは、ナポリでは公衆浴場の設備、利用はいかがであったのか、知りたいものです。

<参考文献>
吉村忠典:古代ローマ帝国の研究、岩波書店(2003年)
オフィスJB編集:1000年の都 古代ローマ、椛o葉社(2008年)

Posted by 管理者 at 13時18分   パーマリンク

【延寿通信】 2018年11月26日(月)

延寿通信 第185号 2018年12月

米ぬかが主役

--化粧石けんの出現するまで

 入浴に欠かせない化粧石けんは江戸時代には一般には普及していませんので、身体を洗うのには米ぬかを使いました。一般の人が化粧石けんを使い始めるのは明治の後半になってからで、100年ぐらい前のことです。顔洗ったり、身体を洗うには、わが国では長い間、米ぬかのお世話になってきました。
 石けんの代わりというと、米ぬかが真っ先に挙がりますが、そのほかに、ふのり、海草、ハーブ(ローズマリー、カモミール)、お茶なども出てきます。
 歴史的に、使用例のもっとも多いのは米ぬかです。
 米ぬかには、いい香りがあるわけでもなく、布袋にやや油っぽい粉末を入れて身体を擦るのですから、鬱陶しい仕事だったことでしょう。爽やかな香りのいい石けんで泡を身体じゅうにつけて洗うというのとは、隔世の感ありです。
 米ぬかの洗浄効果はさほど大きくはなく、これを布袋に詰めてごしごし身体を洗うのは、今日の入浴の楽しさからは程遠いものでした。
 米ぬかというのは、玄米を精白して白米にする時に出る玄米の表面の層です。これが精米の工程では淡褐色の粉末となって大量に排出されます。米の栄養素の大部分が、この米ぬかに含まれています。米ぬかは、油っぽいしっとりとした粉末で、精米する時には大量の米ぬかが出ますので、精米業者はこれを取り出し、袋詰めにして販売します。
 冒頭にも書きましたが、わが国で化粧石けんが使われるようになるのは明治10年代、19世紀末ですが、この時期、一般の人は、まだ大部分がぬか袋であったといいます。化粧石けんを使った後の爽やかな香り、感覚を、江戸時代の人は味わうことが出来ませんでした。

1.米ぬかとは
 真っ白に精白した米は、どこの家庭にもあって、しかも毎日のように顔合わせしています。もっとも、最近はやや昔に戻って玄米をわざわざ求めて、これを使用のつど、精米してご飯を炊くという通もいるようです。やや昔といいましたのは、1945年から1950年にかけて、厳しい配給米時代を体験した人たちの中には、精米が入手しにくかったので、玄米を手に入れて自分で精白していた人もいました。
 玄米というのは、稲から収穫したばかりの米で、精米工程を経ていませんので、真っ白どころか、うす黒く、まだ薄い皮、膜をかぶっています。この膜というのは、外から果皮、種皮、糊粉層の3層から出来ています。米の栄養成分はこの3層に集中しております。精米というのはこの3層を削り取ってしまう工程で、精米の時は、胚芽もとってしまいますので、これも米ぬかに移ります。この精米工程では米の栄養成分の9割が失われてしまいます。
 米ぬかと精白米の成分を比べてみると、重要な栄養成分の大部分が米ぬかにあることが分かります。
 米ぬかの成分には、例えば、腸内の掃除をしてくれる食物繊維は精白米の40倍含まれ、ビタミンB1、ビタミンEは精白米の100倍以上あります。この食物繊維は消化吸収されにくいので大腸内にて、腸壁を刺激して、運動を活発にして腸内環境をととのえ、腸の内側まできれいにする作用があるといいます。米ぬかはまさに、米の栄養成分の宝庫です。この大事な米ぬかを、何とか暮らしに活かして使うことが出来ないか、いろいろ工夫・研究されています。
 米ぬかを古来、洗顔に、身体を洗うのに使ってきたのですが、その効果、使った後の感じはいかがであったか、興味あるところです。化粧石けんの出現する以前、歴史的に何百年と米ぬかは使われてきたのですから、実績は十分あります。

2.石けん以前に洗浄用として使われたもの
 身体の、あるいは衣料の汚れを落とすのに使われたのは、米ぬかだけではなく、身の回りというか山野にあるものなどが広く利用されていました。そのいくらかの例をここに紹介します。
@ 木灰、わら灰、海草灰、尿、鶏糞などアルカリ性のもの
 もっとも古くから使われていた洗浄剤は灰汁(あく)で、これは紀元前から使われていたといいます。この灰汁は木の灰を使い、江戸時代にはこの灰を使う専用の桶があったようで、これを「灰汁桶」と呼んでいました。桶に水を満たして、木灰をいれ、透明の上澄み液(アルカリ液)を洗浄に使い、使用後に底の栓を抜きます。江戸時代のみならず、つい先ごろ、昭和の時代になっても、1945年ごろ、物質不足の時代には、この桶が洗浄用道具として各地で使われていたそうです。
 ここにあげたアルカリ性の材料は、汚れ物質である油を乳化したり、タンパク質を分解して、肌や、衣料などについている汚れ物質を本体から引き離す性質があり、これを浮遊物として除去します。 
A洗剤として使われる植物
 洗剤には泡立ちの良い植物が選ばれました。その代表的なものが、サイカチ、ムクロジ、米のとぎ汁、灰汁です。
 サイカチはマメ科の植物で本州各地の山野にある落葉高木です。この木にはサイカチサポニンが含まれており、薬用では去痰、利尿、消炎に使われております。使用する部位は果実、とげ、種子で、これらは石けん、洗剤の代用になり、入浴剤としても使われるこのもあります。サポニンはさやや、種子に多く含まれています。サポニンの含量が大きいために、薬用で続けて服用しているとサポニンの浴血作用で貧血を起こす場合があるので、要注意といいます。
 ムクロジはムクロジ科の植物で、落葉高木です。大きいものは15mを超えるほどで、山林にあって、民家に植えられたりして、本州南部から四国、九州などで見られます。ムクロジの果皮には「延命皮」という名前までついております。この延命皮は、洗剤のほかに、薬用でも使われています.多量のサポニンが含まれており、強壮、止血,去痰などに使用されます。
 植物図鑑の説明では、「かつては洗剤の代用として、洗髪、洗濯、書画の汚れ落としに用いられた」とあります。ついでながら、このムクロジの実は、正月用の羽根つきの玉、数珠に使われているとあります。
 サイカチ、ムクロジ、灰汁の洗浄力については、東京家政学院大学の研究報告があり、これらの洗浄力について、サイカチは濃度3〜4.5g/ℓ、ムクロジ
2〜3g/ℓでは標準洗剤の約50%の洗浄力があると報告しています。

3.洗浄以外の米ぬかの用途
 米ぬかは、今日では洗剤の代用には使いませんが、栄養成分の多いことから
いろいろの分野で利用されています。 
(1)肥料
 米ぬかの栄養成分を活かして使う肥料は、農業分野で重んじられています。米ぬかは有用な微生物を育て、病原菌の発生を抑え、さらに雑草も抑える効果があるといいます。米ぬかは栄養成分豊富なので、肥料として使うのは有効です。腐敗させて使うほうが効果大のようです。わざわざ、そのために貯蔵の箱を用意して、腐葉土や生ゴミなどと混ぜて、時間かけて腐敗させて肥料にする場合があります。
(2)ぬかづけ
 米ぬかはリン酸、ミネラル、ビタミンに富むので微生物の発酵に有効で、酵母や乳酸菌など有効な微生物が増加します。ぬかづけは日ごろの食卓で、味わっておられる方も多いことでしょう。特にぬかづけには凝っているというか、独特の方法を用い美味しい味を生み出している人もあって、ご家族に喜ばれている女性も多いようです。
(3)サプリメント
 米ぬかの栄養成分はすこぶる豊富ですので、これを捨ててしまうのはもったいない話です。サプリメントとして米ぬかを活用しようというのはいいアイデアです。サプリメントとして使う場合ですが、精米工業会の資料によりますと、まず、「煎りぬか」を作りましょうと書いています。「煎りぬか」というのはフライパンで弱火で5分ぐらい煎ることです。キツネ色にすると香りもよくなるそうです。この「煎りぬか」に、お好みの材料、塩、青海苔、ゴマなどを加えて「ふりかけ」を作ります。

 かつての石けんの代用品の米ぬかは、豊富な栄養成分を活かして農、食の世界にて大活躍です。

<参考文献>
・日本精米工業会 ホームページ:「お米マイスター」による。(2018.10)
・(社)農山漁村文化協会編:米ぬかを使いこなす、(社)農山漁村文化協会刊
 (2000年)
・岡田稔監修:牧野和漢薬草大図鑑、竃k隆館(2002年)

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