【延寿通信】 2008年10月31日(金)

延寿通信 第63号 2008年11月

NHK教育TVで放映された銭湯史のあらまし

NHKで銭湯の歴史「あ〜 極楽の銭湯史」 教育TVで10月に放映 

銭湯とは庶民の娯楽施設であった、というのが、この銭湯史の訴えるところです。歴史ですので過去形にしましたが、現在もなお、銭湯は娯楽施設か、といわれたら、大部分の庶民は、それを否定されるでしょう。もちろん、銭湯は疲れを癒すありがたい施設には違いないのですが、むしろ、娯楽の場というか、リクレーションの場に傾いていっているのは、一部の温泉であり、スーパー銭湯です。入浴というものは銭湯はともかく、自宅であっても、どこの場で行われようとも、暮らしにおける楽しみであることには間違いなく、各自がいろいろのスタイルで入浴を楽しんでおられます。
風呂の歴史、銭湯の歴史そして江戸時代の風呂の話などは本欄では、たびたび取り上げてきました。またまた、同じような内容ですが、NHKにて銭湯史が取り上げられましたので、NHKさんのお話も聞いてみてください。
今回は、NHKで紹介された銭湯の歴史のさわりの部分をご紹介いたしましょう。
この番組は、10月に4回にわたり教育テレビ「NHK知るを楽しむ----歴史に好奇心」というシリーズで放映されました。語り手は庶民文化研究家の町田忍さんです。
 
1.風呂の始まりは仏教から
「日本人とって、『風呂に入る』という行為は、時には医療行為であり、同時に宗教的な行為であり、何より生きながらにして極楽を感じる楽しみであった」これが、語り手 町田さんの銭湯史のテキスト、冒頭の一節です。
銭湯を語るには、まずわが国の風呂の発生というか、日常の行事として、どこでどのように沐浴がおこなわれ始めたかを、論じなければなりません。町田さんは、これを仏教伝来以前からわが国で行われていた宗教行事の禊(みそぎ)に結び付けております。
禊というのは、ご存知のように、今日でも神事などで行われております。禊は罪や穢れを払うために、水を浴びて身を清めることをいうのですが、神道行事だけでなく、普段の暮らしの場でも、斎戒沐浴と言って、ときたま身を清める行為の見られることがあります。
現存する東大寺の大湯屋、鉄湯船は1197年の建造で、常に風呂の歴史には登場します。奈良時代の昔ですが、宗教行事として入浴にかかわっていた東大寺の僧侶たちは、庶民に風呂、入浴の文化を広めました。
寺院の風呂だけでなく、各地の温泉も始めは宗教との結びつきがあったようです。
さらに、入浴と治療とのつながりは、奈良時代、光明皇后の法華寺施浴の話が出てきます。宗教、医療、風呂というのは、もともと深いつながりがありますので、このあたりの話は理解しやすいのではないかと思います。

2.江戸で開花-------銭湯の普及
 宗教行事であった施浴という入浴が、寺院から独立して庶民相手の商売として発展したのが銭湯であり、それは江戸時代のことで、初めは京都で、そして大発展したのが江戸であるというのが、語りのストーリィです。
 東京の日本銀行本店前、銭瓶橋跡には、現在、銭湯発祥の地という案内標識が立っており、それは天正19年(1591年)、伊勢出身の与市によるといいます。
 番組では、江戸時代の銭湯の建物、風呂の構造が、模型で詳しく紹介されました。特に、銭湯では石榴口(ざくろ)という、湯の冷めるのを防止する構造が実物模型で示され、参考になりました。石榴口というのは江戸時代銭湯の構造上の特徴で、語源は、ザクロという酸性の果実で金属の鏡を磨いたためで、「かがみいる」という言葉からといいます。
 慶長19年(1614年)のころ、江戸には約500軒の銭湯がありました。江戸にはじめて銭湯ができて、わずか25年たっているだけですので、早い普及には驚きます。
江戸時代の銭湯では、入浴のマナーが結構行き渡っていたようです。裸の付き合いでは、皆、平等ということで、上下の差別はありません、それだけに余計にお互いに気を遣い、マナーが浸透したのでしょう。しかし、石鹸代わりのヌカや、塗り薬などが洗い場に散乱して木製の床はぬるぬるして歩きにくく、暗いうえに衛生環境も良くなかったといいます。
江戸時代の風呂は熱めであり、その習慣は今日も続いており、日本の現在の銭湯の平均温度は40度ですが、東京は42度であると町田さんは調査結果を述べております。江戸では、結構肉体労働の人が銭湯を愛用していたので、この人たちは筋肉の疲れをとるのに、比較的熱い湯を好んだからだという話が出てきます。
江戸時代には、銭湯の2階は、娯楽の場所として道具が揃っており、飲んだり食ったりもでき、サービスする女性もここにはいたため、風呂の後の楽しみは尽きなかったようです。ただし、この風潮の盛んなのは江戸時代限りで、明治になって衰退します。
 
3.文明開化と銭湯-------明治維新のころ
 1881年(明治14年)には東京の銭湯は1021軒あり、ますます繁盛します。
銭湯の建物は独特で、宮造りの豪華なつくりで有名であり、現在も少なからず残っており、テレビ放送ということもあって、建物の紹介は見ものでした。珍しい建物や、凝った内装などが次々と出てくるのはこの番組の特徴の一つでした。
 明治になってから、銭湯では風紀上の問題、衛生面が重視され、江戸時代とは大きく転換します。そこに豪華な建物が加わり、明治時代なりに大きく発展します。宮造りというのは東京独特のスタイルだそうです。何ゆえ、銭湯の建物が宮造りの豪華な雰囲気にあるのか、それは理解しがたいところでしたが、一説には、この傾向は関東大震災以降で、震災で沈んだ市民の気持ちを守り立てるためといいます。
この時期、東京では銭湯の管理は警視庁が受け持ち、第2次世界大戦までは銭湯の取り締まりは警察が担当しました。こういう仕事を警察が担当するというのは明治では珍しくなく、医薬品の営業、薬局の管理、市民の衛生も、かつては警察が行っておりました。 
警察の取り締まりは厳しく、2階の娯楽施設は、この時期、風紀上の問題で禁止され、また、石榴口、混浴の禁止なども相次いで禁止令が出ました。衛生上、風紀上の取り締まりが行われる一方、このころ、銭湯の構造近代化はすすみ、「改良風呂」とか、「温泉式風呂」も登場しました。明るく、床も滑らない材料がつかわれ、衛生的だけでなく、客への配慮、サービスが向上しました。
銭湯2階の娯楽場の様子は次第に自粛されてはゆくものの、かなり広く、梯子で2階に上がると、2階番として女性が高い位置におり、茶酌女という女性が数名いて、男性客の相手をしておりました。梅か牡丹か月花のような色っぽい美しい女性ばかりであったといいます。この時期を過ぎても、まだ2階は使われて、一部には残っていました。
 当時の銭湯の湯槽は、縦横3m、深さ1.2mで、十分肩まで浸かり、流し場は4mx6mで、
男女は別々になっていました。江戸時代の混浴は明治維新で厳禁になりましたが、全国一律ではなく、秋田県は1900年に混浴禁止令が出ているので、日本中に混浴禁止が徹底するまでに30年かかっております。
 
4.昭和になって-------銭湯の完成
 銭湯の構造は大体、明治の時期に出来上がりますが、都会人の出現は銭湯を、合理的な、衛生的な浴場に生まれ変えさせてゆきます。ガラスやタイルもふんだんに使われ、モダンな洋風の内部、構造が、主力になっては来るものの、一方では、豪華な浴室や千人風呂、ローマ風呂など工夫を凝らした大規模な施設も現れます。
 特に、この時期、強調されているのは浴槽付近のペンキ絵です。例の富士山の絵が紹介されます。もう一つ、江戸時代からの引き継ぎで広告の張り出しがあります。銭湯の広告は江戸時代から華々しく、薬を始め化粧品あるいは寄席など、庶民へのPRはところ狭ましと広告が並びました。この宣伝の場としての銭湯は、昭和になっても行われました。たとえば、洗い桶を使った薬、ケロリンの広告は長く続きました。
楽しみの場という伝統は生かされますが、次第に娯楽性は薄らいでゆきます。建物を豪華にして客を呼び、目を楽しませるということには銭湯の経営者は熱心で、昭和になっても、天井の高い脱衣場、富士山のペンキ絵など構造・内装にも華々しい展開がありました。   
京都の銭湯では輸入タイルも使われ、すばらしいデザイン・色彩は、見ものでした。輸入タイルを貼りめぐらせた豪華な浴場は、今は喫茶店になっているようです。
 脱衣場の施設というか、客へのサービス付属物では、以前から体重計はどこにでも見られましたが、昭和30年代になると、マッサージ器を置いたり、冷蔵庫が設置されたりで、コーヒー牛乳やフルーツ牛乳が銭湯の人気商品になりました。
 番台というのは、銭湯の重要な場所・役目であり、江戸時代から連綿と今日まで続いております。銭湯に入ってくる客に背を向けているので、外国人には奇妙な存在だそうですが、ご承知のように番台は、銭湯のカナメであって、入浴料金を受け取り、客の安全管理、荷物の見張りなど、大事な仕事を受け持っております。経営者あるいは、身内の方がこの役目を担う場合が多いようです。
 銭湯の入浴料金について、番組のテキストには江戸時代から今日までの詳細な表が出ています。その中から、かいつまんで列記します。この数字は東京都の場合で、成人1回の入浴料金です。この数字で見ると、今の料金は明治初めの3万倍ということになります。物価の一般的な傾向としては、比率では安くはないといえます。
 
1870年 1銭5厘
1925年 5銭
1945年 20銭
1960年 17円
1980年 155円
2008年 450円

 この番組の銭湯は東京中心でしたが、テキストには大阪、京都の銭湯のことが若干出てきます。とくに大阪の銭湯は客へのサービスが良く、泡風呂や薬風呂などの導入が早かったという記事が出てきます。薬風呂については、江戸時代の銭湯経営者は関心大でしたが、本番組では深くは触れていません。そういうわけで今回は入浴剤 延寿湯温泉の出番がありませんでした。
 
<参考文献>
町田 忍:NHK 知るを楽しむ 歴史に好奇心「あ〜極楽の銭湯史」、日本放送出版協会(2008年)

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【延寿通信】 2008年10月02日(木)

延寿通信 第62号 2008年10月

来春から一般用医薬品の販売制度が大きく変わります

「ファミマ、大衆薬販売に参入」(日経 2008.10.1)と日経新聞は大きく取り上げております。ファミリーマートが、2011年度までに全国100〜150店で、一般用医薬品の販売に参入するという記事です。これは、来春施行の改正薬事法による規制緩和をにらんでのコンビニの動きで、他に家電製品販売の大手も参入の計画中といいます。ドラッグストアを交えた価格競争が激しくなりそうだと、同紙は報じています。
 もうすでにこの動きはご存知かと思いますが、厚生労働省は着々と体制作りをしており、
さる9月末、関係法令につき一般からの意見を募集するため、その内容が公開されました。
 一般用医薬品というと、薬局やドラッグストア、あるいは薬店で一般の人が購入する医薬品を言うのですが、一般用医薬品にとっては薬事法制定以来の大規模な変更です。今回は冒頭に紹介した、医薬品販売制度の変更のあらましをご説明いたします。
 これらの法律の施行は来年2009年6月1日が予定されており、現段階で制度のすべてが出揃ったのではありません。あらかじめ、お断りしておきますが、ここで紹介する改正規則・省令案の内容は、まだ決定していない部分があるため、来春、施行の際には変更している箇所の出る可能性はあります。
 なお、この法改正では医薬部外品も含まれておりますが、延寿湯温泉はじめ医薬部外品の浴用剤は、法的位置づけ・包装の表示・販売方法は特に変更はありません。ただし、浴用剤以外の一部の医薬部外品には変更があります。
 詳細・確認のためには厚生労働省の「一般用医薬品販売制度ホームページ」をご覧ください

1.改正の趣旨
 今回、大幅に制度の改正が行われたその趣旨は、一般用の医薬品を対象として、これらの医薬品使用の危険度の大きさに応じて、情報が的確に購入者に伝わるようにというのであります。いわゆる使用の適正化というか、医薬品の安全性を、より高めるための措置です。
 一方では、背景の一つに医薬品がもっと消費者に手軽に手元に届くようにという消費者への便益と、販売制度の規制緩和ということもあります。薬局以外のコンビニやスーパーなどで、どこでも、いつでも一般用の医薬品が入手できるようになります。これらの店では薬剤師を常駐させなくてもよくなるのです。
 また、最近増加してきているインターネットによる販売も対象となる医薬品が指定されました。リスクの少ない医薬品が実施できる対象として、法で明文化されました。逆に、リスクの高い医薬品は禁止となり、明確に一線が引かれました。

2.一般用医薬品は4つの区分に分けられる
 一般用医薬品は使用に際し、危険の程度の高さに応じて、リスク区分が設定されました。
区分は危険度の特に高いほうから低いほうに向かって
「第1類医薬品」
「指定第2類医薬品」
「第2類医薬品」
「第3類医薬品」と、4つの段階に分けられています。
この危険度に応じて、販売時に、販売者が客に情報を与えるのですが、危険度の高い
「第1類医薬品」については薬剤師が直接説明することになっております。比較的危険度の高い「第2類医薬品」、一番危険度の低い「第3類医薬品」については、薬剤師ではなく、新たに制定された登録販売者が販売できます。それぞれ程度に応じて説明はなされますが、「第3類医薬品」については、要求が無ければ、説明は無くてもいいことになっています。これらの区分された医薬品は、それぞれ区分ごとに分けて陳列することになっております。
 特に、危険度の高い「第1類医薬品」と「指定第2類医薬品」は、客が直接、手の触れる場所には置いてはいけないことになっております
 どういう薬が「第1類医薬品」で、何が「第2類医薬品」かという区別は、法律で定められて指定されており、別に一覧表が公開されております。また、商品包装の表示には、この区分が明記されますので、購入の際に確かめることができます。品目数では、大部分が「第2類医薬品」と「第3類医薬品」であり、漢方、生薬類もほとんどが、この「第2類医薬品」か、「第3類医薬品」に指定されております。通信販売ができるのは、この中の
「第3類医薬品」のみです。

3.登録販売業という新しい業態-----消えてゆく薬種商
 先に、登録販売者という名称を書きましたが、これは今回、新しく定められた資格です。
すでに府県別に資格試験の第一回は実施され、一部の地域では合格者も発表されております。
 登録販売者の従事する店が登録販売業です。
 登録販売業の登場は今回の制度改革の目玉の一つで、店舗販売業の中に含まれます。店舗販売業というのも、今回の新しく生まれた名称で、ここには、現行の一般販売業、薬種商などが包含されます。これまでなじみの深かった薬種商、特例販売業という名前は消えてゆきます。
 薬局は従来と同様に存続します。処方箋調剤が主たる仕事になりますが、一般用医薬品はすべてを扱うことができます。
 したがって新制度では、販売業態は、薬局、店舗販売業、配置販売業の3種になります。
 一般用医薬品の販売は薬局、店舗販売業と配置販売業に限定されます。配置販売業の取り扱うことのできる医薬品は別に指定されます。
 薬剤師は、すべての一般用医薬品の販売が出来ますが、登録販売者は第2類と第3類の医薬品のみが販売できます。すなわち、登録販売者が販売できるのは使用に際してリスクの比較的少ない一般薬が対象となります。このように分けられているのは、安全にかかわる説明が、客に的確に伝わるようにという配慮によります。
 医薬部外品は、もともと薬局以外でも販売はできましたので、これは従来どおりです。もちろん、新しい登録販売業でも扱うことができます。
これまで、一般販売業と言っていた業態の名前は消えて、これは新設された店舗販売業に含まれます。
 また、これまでの卸売一般販売業の業態はそのままで特に変わりません。名称のみが卸売販売業と変わります。

4.医薬部外品は存続------3つに分かれる
 医薬部外品というのは、もともと作用の穏やかな医薬品を対象としていますので、現行法規も一般用医薬品とは別にして販売者の制限はしておりません。しかし、最近の医薬部外品には「新医薬部外品」として、以前の薬事法の規定から、別枠で決められた医薬部外品がありました。すなわち、胃腸薬、風邪薬、きず薬など一部作用の緩和な成分によるものは、薬局以外でも販売は可能となって、コンビニなどで広く店頭に並んでいます。
これらの新医薬部外品と、本来の浴用剤他の医薬部外品とが一まとめになり、医薬部外品は次の3区分に分けられました。これらの区分の名称はそれぞれの包装に表示します。
@防除用医薬部外品
A指定医薬部外品
B医薬部外品
 また、有効成分名と量の表示が必要な品目と非表示品目との2種に分けられました。
有効成分名と量の表示が必要な医薬部外品は、@の防除用医薬部外品と、Aの指定医薬部外品です。
 何度もいうように、浴用剤は従来どおりの扱いのままで、有効成分名と量の表示は不必要な品目に指定され、また医薬部外品の区分はBです。したがって、入浴剤 延寿湯温泉の包装表示は一切変更はありません。

<参考文献>
厚生労働省のホームページ 「一般用医薬品販売制度ホームページ」

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【延寿通信】 2008年09月01日(月)

延寿通信 第61号 2008年9月

貝原益軒の『養生論』 入浴の話を特集

延寿通信 第61号  2008年9月
『養生訓』と入浴

貝原益軒という人は、江戸時代1630年に生まれて、医者になる決心をして医学や本草学を学びました。しかし、医者として実際に患者の診察をすることはほとんどなく、むしろ、日本の各地を旅して自然科学を習得して、本草学の大家になりました。1714年、84歳で亡くなるまでに、学問の分野はますます広まり、自然科学の領域から、今で言えば社会学、教育学にも及んでおります。
たくさんの著書の中で『養生訓』(ようじょうくん)は、健康な暮らしへの助言が古典として、あるいは人生論のテキストとして、今もなお、広く読まれています。『養生訓』は貝原益軒が83歳のとき、1713年に出版されました。高齢にもかかわらず、旺盛な著作活動を続けていたのが、この人の特徴の一つです。
今回は、『養生訓』に述べられている益軒のお風呂の入り方をご紹介しましょう。
『養生訓』には心身の健康な暮らしへのアドバイスがたくさん詰まっておりますが、江戸時代という時代を頭に入れて、それらのアドバイスを受け止める必要があります。まことに、ごもっともな忠告があれば、逆に今の時代、滑稽どころか、逆に健康に好ましくない教えも見受けられます。なお、内容の是非は選別しておりません。
ここでは入浴に関する話題を集めますが、『養生訓』全体からはほんの一部です。今日、『養生訓』はリバイバルで広く読まれ、『養生訓』の解説書、入門書は、いろいろ出ております。ご興味ある方は、貝原益軒『養生訓』に、どうぞ挑戦してみてください。本稿では、岩波文庫の『養生訓』(石川謙校注)、および中央公論社の『日本の名著 貝原益軒』(松田道雄訳)を使います。

1.江戸時代の入浴事情
 はじめに、貝原益軒の時代の入浴というものを、理解しておかねばなりません。江戸時代も元禄年間過ぎて正徳年間(1700年代)ですので、町民はわりに豊かに、その日暮らしを楽しんでいたでしょう。益軒の晩年住んでいた九州博多あたりは、商人の町として結構栄えていたと思われますので、当時には珍しく家庭風呂の普及はあったかもしれません。そのころは商人といえども、通常はよほどの資産家でないと風呂を据え付けることはできませんでした。
風呂は入浴タイプよりも、地方によっては蒸し風呂タイプの多かった地域もあります。しかし、共同浴場となると、江戸の町の銭湯は『養生訓』の時代は、湯を浴びる浴場タイプ、湯屋が優勢でした。
江戸時代は、温泉は繁盛しており、益軒も温泉めぐりは好きで、全国の有名温泉を回っております。68歳のときは夫婦で二度目の有馬温泉を訪れ、しばらく滞在しております。温泉ですと、どっぷり湯につかる今日の銭湯タイプになります。
益軒は入浴の方法の一つとして、たらいによる行水(ぎょうずい)を取り上げております。ささやかながら湯を浴びる方式です。この方式は、大げさな設備がいるわけでなく、容易に道具が揃うので、江戸時代の家庭で普及していたことは想像できます。

2.風呂の入り方
 行水方式というのは、今では、赤ちゃんの入浴でわずかに残っておりますが、通常の家庭では過去の習俗になっています。戦後の1950年代には、行水は都会でも行われておりました。
 益軒の行水の説明では、先ず、たらいの大きさ・材質からはじまります。
 たらいの寸法は、縦が80cm、横が60cm、深さは40cm、板の厚みは1.8cm
底部はもうすこし厚いほうがいい、そして、ふたもあるほうがいい、板の材料は杉を奨めております。寒いときには、たらいの周りと上を囲み、風が通らないようにする、たらいはできるだけ深くします。湯の量は深さで18cmぐらいが適量だそうです。
温度と入り方ですが、ここで益軒は、たらいの一方に釜を据え付けて、水を深く入れて湯を熱くすることを奨めておりますが、しかし、からだを温め過ぎると、気を上らすので、大いに害があるといっています。これはまさに、風呂桶による入浴方式にほかなりませんが、益軒は健康上、深い浴槽に入るよりも、たらいの行水の方がいいといっております。
行水の場合、別の大釜に湯を沸かして、その湯をたらいに入れて、湯を浅くして熱くない湯に入り、早くつかってあがります。からだを温め過ぎないようにすれば、害は無い、と説明しております。出るときに、からだが温まらない場合は、熱い湯を加えて少し熱くして、早めに出てしまえば、からだに害はない、といいます。要するに、寒くない程度に、早めに上がるようにというのが、益軒お奨めの入り方になるようです。
 からだを温めすぎないこと、これを益軒は繰り返し注意しています。そのための方策でしょうか、益軒は、かけ湯という方式を奨めております。これは、たらいに湯を浅めに入れておいて、別に熱い湯を用意し、肩背から少しずつかける方式です。早めに止めると、気の循環はよく、食の消化を助けるといいます。寒いときには、からだが温まって陽気を補助し、汗も出さないので、これを何回も繰り返すのは害が無いということです。
何度も入浴するには、肩背には湯をかけるだけにして、垢を落とさない、下のほうはよく洗って、早く上がります。
 入浴にかかわる一般的な注意としては、次のことをあげています。 
・空腹時には、入浴してはいけない。
・満腹のときは髪を洗ってはいけない。
・熱い湯に入るのは害がある。湯加減は自分でみること。
・気持ちがいいからといって、熱い湯に入ってはいけない。気が上り、気が減るから。
・特に、目の悪い人、からだの凍えた人は熱い湯はいけない。
・入浴後は風に当たってはいけない。風に当たったら、早く手で皮膚をこすること。

3.風呂に入る期間・間隔
 入浴の基本は、あまり何度も入らぬこと、10日に1回ぐらいがいいのではないかと、言っています。何度も入ると、温気が過ぎて、肌の毛穴が開いて汗が外へ出て、気が減るからいけないといいます。
風呂に入いる間隔は、暑い夏場は別として、通常は5日に1回、頭を洗い、10日に
1度、入浴するのが昔からの入り方であり、何度も入るのは気分はいいかもしれないが、気が減るからやめなさいと、述べております。
このように入浴が、月に2、3回というのは、江戸時代の町民では、当たり前のようで、たとえば、江戸末期の小説家 曲亭馬琴は、日記に細かく入浴回数を書いておりますが、銭湯にゆくのは大体、月に2、3回です。
 益軒は、入浴にあたり、「気」を強く意識しておりますが、江戸時代の医療では当然のことです。しかし、とりわけ、『養生訓』で、これが強調されているのは、養生とは身を慎み、生命を大事にすることであり、そのためには外邪である天の気(健康を損なう外部環境)に冒されないようにと述べて、風、寒、暑、湿の気に害されることを特に要注意にしているからです。

4.温泉と湯治
 温泉は各地にあるけれども、すべての病気にいいというものではなく、病気によっては入っていけない温泉もあるので注意しなければならないと、いっております。
湯治に向いているのは外傷の治癒で、打ち身、落馬、高いところからの転落、刀傷、疥癬などの皮膚病、これらには卓効があります。また、中風、筋の引きつり、縮まり、手足の動きにくい病気は湯治には良く、内蔵の病気には温泉治療は不向きといっております。
 湯治では、体力ある病人でも、1日3度以上は浴槽に入ってはいけない。弱い人は1日、1、2度でいい、何度も温泉につかるのは良くない、湯の中でからだを温めすぎるのがいけないのです。浴槽のへりに腰掛けて、湯を柄杓でからだにかける入り方がいいそうです。
湯治の期間は1、2週間がよく、俗に、これを一巡り、二巡りといいます。
温泉の湯は毒があるから、飲んではいけません。さらに、湯治しているときは、熱性の物を食べてはいけない、大酒、大食いも駄目、房事は大変良くない、と注意しています。
 近くに温泉のない人は汲み湯といって、温泉の湯を貰って入る場合がありますが、この湯は温泉の地から湧き出した温熱の気を失っています。近くの清水を汲んで入るほうがいいのではないかと、他人の説を引用して説明しています。江戸の殿様は熱海から温泉の湯を運ばせたがという話があります。

5.薬湯の記述はない
 益軒は、この『養生訓』にて薬湯の五木八草湯を奨めていると、入浴剤業界団体のPR誌に出ておりますが、疑問です。『養生訓』にはこの記事はみつかりません。
江戸時代はじめには、他の書で薬湯の五木湯は出ています。当時の薬湯と言えば生薬の入浴剤ですので、これには今の延寿湯温泉が近いでしょう。しかし、五木湯の場合は、今日の薬湯とは配合生薬が異なります。
益軒は、一流の本草学者ですので、生薬の知識は豊富です。これらの生薬の入浴剤への利用については益軒の大著『大和本草』にて扱われております。五木湯というのは、中国由来ではないかと思います。生薬の選択が、日本独自のものと見られない一面があるからです。参考までに、五木湯に配合されている生薬は、いろいろありますが、一例は柳、桃、エンジュ、梶、桑です。

 <参考文献>
石川謙校注:養生訓・和俗童子訓(岩波文庫)、岩波書店(1961)
松田道雄訳:日本の名著 貝原益軒、中央公論社(1969)
貝原益軒著、白井光太郎校注:復刻版 大和本草、有明書房(1992)     

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